トップページ>かしの たかひとプロフィール
略歴と青春時代から現在までをご紹介します。
| 年齢 | 46歳 |
|---|---|
| 星座 | おひつじ座 |
| 家族 | 妻、娘(6歳) |
| 趣味 | 野球(中学から現在まで野球歴34年、2年前はリーグ首位打者、昨年の防御率は1.40) |
| 好きな言葉 | 人事を尽くして天命を待つ |
| 好きな食べ物 | お好み焼き、たこ焼き、プリン |
| 学歴 | 1976年 板宿小学校卒 |
| 1979年 飛松中学校卒 | |
| 1982年 長田高校卒 34回生 | |
| 1986年 神戸大学経済学部卒 | |
| 職歴 | 1986年 ㈱リクルート神戸支社 人材開発部 |
| 1990年 ㈱リクルート本社 キャンパスマガジン編集長 | |
| 1993年 ㈱福岡ドーム コンサルティング&プロデューサー | |
| 1997年 ㈱メディアファクトリー 映画プロデューサー | |
| 1998年 ㈱中央FM 取締役 | |
| 2000年 ㈱IMJ 代表取締役社長 | |
| 2007年 ㈱IMJエンタテインメント 代表取締役社長 | |
| 2009年 ㈱IMJ 顧問(現任) |
私の親父は中卒で広島から、おふくろは高卒で鳥取から、ともに神戸に出てきて、好き合って一緒になりました。両親にとって当時の神戸はあこがれの街だったそうです。だからこそ出会えた。もしもそうでなければ、私は生まれていなかったはずです。神戸に輝き続けてほしいと願うのは、だからきっと、私のDNAに刷り込まれた本能なんでしょうね。
板宿小学校では柔道をやっていましたが、野球は好きでしたね。恥ずかしい話ですが、本をまったく読まない子供で、夏休みの宿題の読書感想文は、毎年毎年『ベーブ・ルース』。それしか読んでないんです。学年があがるにつれて、感想文の内容はちょっとずつ深まっていたはずですけど(笑)。
飛松中学に入ってからは野球部に入りました(柔道→野球が「ドカベン」の山田太郎みたいだと勝手に思っていました笑)。中学での一番の思い出は、なんといっても3年生のときの大会です。まわりはうまい奴らばっかり。私の背番号は10だったのですが、キャプテンに指名されて市の大会で優勝。県大会の選手宣誓をしたことが思い出に残っています。
長田高校に入ってもやっぱり野球一筋。勉強は、数学と国語が好きでしたね。あまり勉強しなくてもアドリブでいける科目だったので(笑)。生徒会長の応援演説で全校生徒を爆笑の渦に巻き込んで、先生にこっぴどく叱られたのを覚えています。いま考えれば不謹慎な高校生でしたね。野球部でのポジションはピッチャー、主将をやらせてもらいました。引退試合が終わった時は3年間野球をやりきった充実感でいっぱいでした。
長田高校時代の夏の大会のマウンドで。大学でも当然のように野球部に入りました。ところが、入部直後に肩を壊して投げられなくなってしまったんです。仕方なく退部届を出して、しばらくは他のサークルに入ったりして遊んでいました。バイトもいろいろやったんですよ。甲子園で「かちわり」売ったり、宝塚ファミリーランドで象のぬいぐるみ着たり・・・(笑)。でもやっぱり野球をやりたくて、復部を願い出たんです。復帰後、下級生に交じってグラウンド整備をやりました。そのときは野球をやっているというより、部の一員として認められたい一心でした。1年近くたった頃、レギュラーだった後輩が、「先輩、明日からは私らだけでやりますから大丈夫です」と言ってくれたのが忘れられないですね。「やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい」というのが私のポリシーなんですが、その一言はほんとに嬉しかったです。
だから大学では、3年生のときだけまともに野球をやったということになりますね。でも、いまとなっては貴重な経験をしたと思っています。ちなみに野球は今も続けていて、社会人草野球リーグで首位打者も獲得したんですよ!ちょっとした自慢です(笑)。
25年ぶりとなる神戸大学野球部のユニフォーム姿。母校のグラウンドで練習に励む後輩を見つめる。(撮影:2009年7月3日)大学卒業後は商社マンになろうと思い、複数の会社から内定もいただきました。が、あまり興味を持たずに受けたリクルートの面接で、その後の上司になる人に出会ったのが運命でした。「この人の下で働きたい」という想いだけで、リクルートにお世話になろうと決めました。新入社員として、神戸支社の人材開発部に配属され、採用担当としてとにかくさまざまな人と会うのが仕事でした。年間1000人は面接しましたね。振り返ってみれば、人に対する目利きが非常に養われた時代ですね。同時に、人の能力を引き出すのはキャスティング次第ということも学びました。入社後の配属や異動を通じて、活躍する人、大器晩成型の人などいろんなタイプをたくさん目にした体験は、今日に至るまで私の礎になっているんです。
最初の転機は入社4年目に訪れました。いわゆる「リクルート事件」です。もちろん採用にも影響がおよび、内定辞退者が相次ぎました。 そのとき、「いまこそリクルート自身が事件について語らなければならない」と、新卒者に向けたメッセージを発信する企画に参加したのです。これはとてもやりがいのある仕事でした。人の心に訴え、それに反応してもらえることの手ごたえは何にも代えがたい、という実感を得たのです。
その後、リクルート全体のイメージアップに貢献できる仕事を希望して東京へ異動。全国の大学を結ぶイベントを手がけ、クリエイティブの面白さに目覚め、編集部への転属を直訴して「キャンパスマガジン」の編集長を務めることになりました。「紙媒体における双方向性の限界に挑む」というのが同誌のコンセプトでした。渋谷にイベント空間を持ち、すべての記事がイベント連動型という他に類を見ない斬新な雑誌でした。ビジネス企画、アート、写真、演劇、音楽、映像などあらゆるジャンルで新しい才能を発掘し、さまざまなイベントを仕掛け、紙と空間をミックスしたメディアプロデュースをする―、その当時に出会った人々とのつながりは、私にとっていまでもとても大切な財産です。
リクルート入社時次なる転機もまた、突然やってきました。ダイエーによるリクルート買収です。当時のダイエーには、ソフトビジネスを手がけられるスタッフがあまりいなかった。そこで、リクルートの中に白羽の矢が放たれ、その一本が私に立ったのです。めちゃめちゃ喜びましたね(笑)。当時ダイエーのオーナーだった中内功さんは、長田高校の大先輩でしたし、私は神戸出身なので、主婦の店ダイエーにも非常に親近感を持っていました。当時はダイエーがツインドームシティ構想をぶち上げて、ホークスを買収した後、福岡に双子のドームを造って、ホテルも造って、都市開発をやるぞと。神戸と野球。この仕事にはまさに運命を感じましたね。
このプロジェクトは次男の中内正氏の直轄だけに、会えない人はいないというぐらい自由に仕事をさせていただき、スケールの大きな企画の動かし方をこのとき身につけることができました。さらには、1年間ニューヨークに滞在し、エンタテインメントの本場でありとあらゆる「本物」を見ることもできました。
そして、この福岡時代にあの阪神大震災が起こったのです。私はすぐにおふくろに電話をかけました。やっと通じた電話の向こうで、おふくろはこう言いました。「あんたは帰ってこんでええ。あんたの水と食べ物が余分にいるようになるやろ」確かにそのとおりでした。すぐに神戸に帰れないなら、神戸のために何ができるのだろう。そうだ、仕事で神戸に恩返しができるかもしれない、と思いました。結局、日本人チームの監督が王さん、外人チームの監督がボビー・バレンタインというプロ野球オールスター戦の第三戦を福岡ドームで開催していただき、経費を差し引いた収益のすべてを震災からの復興をめざす神戸に日本プロ野球機構から寄付させていただくお手伝いが出来たのです。
福岡ドーム「集客力」の作り方著者:樫野孝人
その後、福岡ドームの事業が一段落し、それまで未経験だった映像事業を立ち上げるため、リクルート子会社のメディアファクトリーに異動となりました。最初に関わった作品がカンヌ映画祭に出品され、翌年手掛けた作品がベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞を獲ったんです。企画、脚本の段階からずっと私自身も一緒にやっての受賞だったので、飛びきり嬉しかったですね。さらにその翌年に関わった作品でベネチア映画祭に出席する機会を持ち、世界三大映画祭にすべて足を運ぶことができました。その後の製作作品(「ジュブナイル」「バトルロワイアル」「NANA」など)でも高い評価を残すことができ、本当に幸運でしたね。
また、この時期は、東京・銀座のコミュニティFM局の再生を委託され、取締役を兼任しながら、電波メディアのプロデュースも経験させてもらいました。
カンヌ映画祭のレッドカーペットを歩くこうして紙・空間・映像・電波とひととおりのメディアプロデュースに携わり、自分の中で一区切りできたところでした。当時リクルートには38歳フレックス定年制という制度があり、数千万円の退職金がもらえたので、これを期に自分で事業を興そうと思っていました。そんなとき、インターネット企業のIMJ創業社長と出会い、後継者としての誘いを受けたのです。
このときまず頭に浮かんだのは、一貫してメディアプロデュースに携わる中で唯一タッチしていないのがインターネットということでした。「これを手がけないでメディアをやったとはいえないだろう」そう思いました。「IMJの経営を引き受ければ、すべてのメディアを網羅できる。」何度かのミーティングを重ねる中で、一刻も早くインターネットの世界に踏み出そうという意欲が強くなり、結局は退職金をもらえる時期まで待たずに自分の思いを優先しました。2000年10月、37歳6カ月でIMJの代表取締役を引きうけました。創業社長から依頼されたのは、次のの3つでした。①社員100人を超える組織の新しい経営スタイルをつくること ②web制作事業の次の柱となる新しい事業をつくること ③株式公開(上場)すること。
経営のトップとして邁進する当時のIMJは創業5年目、まだまだ小さな企業でした。私は2代目だったので、たとえれば、急に5歳の子供の父親になったようなものです(笑)。初めのうちは私と社員がお互いに様子を窺っているような感じでしたね。ただ、最初の1年半ぐらいでさまざまな会議や飲み会などを催し、社員と膝詰めで話し合っているうちに、だんだんお互いの目線が合うようになってきました。その頃ですかね、「ああ、もしかしたら父親として認めてもらえたかな」と思えたのは。翌年の2001年には、ナスダックジャパン(現ヘラクレス)に上場を済ませましたが、早いものでもう9年。バトンを渡した現在のIMJは、売上186億円、社員数もグループですでに850名規模になろうとしています。
最近よく思うのです。実は、私という人間は、小さい時からずっと同じことをしてきたのではないか、と。さまざまな個性を持った人間を個性を生かしたままひとつにまとめ、楽しいことを提案し、最後まで一緒になってもっと楽しくする。かといって自分が楽しいというよりも、一緒にやっている人々が楽しんでいるのを見るのが楽しい。そういうことをずっとしてきたのではないか、と。
チャレンジを宣言する!![]()













